ドローイングと立体
人は睡眠のとき夢をみるが、次々と現れたものも多くは跡形もなく消えてゆく、目ざめのあと、その印象が強いとき、残像を辿りながら再び記憶を重ねることも出来る。それでも追いかけ捉えようとして消えてしまうものがある。意識と夢のスピード競争になる。アルベルト・マッタは「作家にとってドローイングは直載なものであり、思考の働きを捉えるのに適切で、ドローイングは水面に記号をかくようなもので、直ちにドローイングは遠のいてゆくようだが………形態と既に見知った認識や視覚や通念、既に受け入れられている形の隠家とが競いあう………」と。
あるとき私はドローイングを比較的オートマチック(手指動くまま・自動手記)に描いてきた、その筆跡は既存の形に対し、まったくおもいがけない表情と形体になっている事がある。
私達は、かなりの数量の視覚形体を共有している。そのなかには大まかな輪郭が記号のようになっているのもある又、「無意識の体得」と更に逆のぼって「生命記憶」のように原始的な記憶の遺伝からの作用も考えられる。夢の中ではそれらが入り交じって、大袈裟にリアリティを感じてしまうことがある。
演劇、映画、映像などで記憶の構造と時間を切断したり、混合、再構成し、意識的にも、潜在的にも、ある流れを持とうとする。夢もその結果から似ているものがある。星くずのようにばらばらになったり、断片が重なって、暗示的余韻だけを残すものもある。
そして私はドローイングの自動手記感覚を彫刻(立体)にも応用した、立体の触覚的な表面に、とどまらず眼に見えない、触れられない内在しているものも感じ、制作し続けた。知識と肉感に近い感覚を厳密に分けられないことがある.今日、空間のスケールは知識と体感が連続線上にあると考えている。
星空をながめていた古代人はどのように思い考えていたのであろうか。人間も作品も星の一部であるとして、作品は航海者のようで、その探索から光や軌跡に触れようとしているのだろう。