見えない姿の存在

 私は、よく大空を眺め、限りなく興味を寄せていた。海に対しても同等のものがあるかも知れない、唯、海辺近くに住んでいなかっただけだと思う。大空は、その気であれば毎日、見上げることが出来る、青空に雲、季節、そして時間帯により千変万化の姿をみせてくれる。私はその雲などをスケッチ、油絵の対象にしていた。
 積乱雲、積層雲、巻雲、この多彩な変化はとどまらない、そしてそのスケッチもする、動くものをきにかけないで、ほどほどの興味があれば描きのこせた、油絵にもした。1947、1949年の秋に大型台風が日本列島にきた、関東地方を通過し大きな被害をのこした。その台風は前もってラジオが繰り返し、その進路、規模など警告していたが、私は空をみて雲の流れと共に風雨を肌で感じ、その自然エネルギーは想像を超えるものがあった。

 私は雲を描いたが、台風の視覚を超え強い感覚が再度、絵にしたい欲求となり、油絵の具をもちだした。キャンバスがわりの板に青色を一面に塗る、それが乾いたのち白色絵の具を筆につけ、勢いをつけて左周りに渦を描くように強くグルグルと塗りまわす、青地の上は筆あとが厚めで白い面になり中心部分は目のように青色をのこし、左周りの勢いの筆は白い面をとびだし不規則に数本に延びて描かれていた。1949年晩秋この一枚の絵はそのまま残しておいた。

 後年になって、気象衛星からの台風のテレビ画像をみると、以前に私が描いたものとほとんど同じなので不思議に思った。人間は誰でもその差はあっても、気付かずに予想、予感の素質があり唯そのことについて普段あまり表面で話すこともなく表現することも少ない。  絵画や彫刻で、目に見える自然や在る物を写し再現する事と別なものを感じていたが、さらに表現とか、提示とか、それらは多様で限りないものだろう。又、自然現象だけでなく、人間の社会的な予想、予感は更に気がかりなものがある。
 1977年東京-池袋にあった、西武美術館でオーストリアの現代画家フンデルトワッサー展をみる機会があった。その展覧会場を一巡すると、絵画のほかに、10数点の建築模型が展示されていた。それらの作品は環境の重要さを示している個々の作品の特性を超えて総括てきにすべてに共通したものは、それぞれの建築は緑の植物群に包まれている、そして重層した土地や屋根もすべて緑で埋め包まれていた。  この展覧会カタログを数年前から見直していたが、図録の他に作家の熱心な文章があり、その中に、折々激しい調子で既存の建築、道路(計画図を含め)を批判している。現在(2008年)の地球環境の問題(危機感)を重ねて考えることが出来る。フンデルトワッサーは40年以前から建築、道路など具体的で個別的なものをとうして将来の文明全体へ、不安感を訴え伝えようとしているのだろう。