見えない姿の存在

 子供のころからなぜか潮の満ち引きに興味をもっていた。 海水の動きだけではなく干潟にとり残されたゴミや流木にも、また時刻が変わると、なんにも浮かんでいない陽光も変わってしまった満潮の海面にも。
 春になると私の家では潮干狩りにゆくならわしだった。町育ちの小学生の私は、広々とした干潟の海につくと体全体が一時的に支点を失い、はじけ飛ぶように遊びまわっていた。砂の中のアサリやハマグリを掘り探したり、ゆるやかな砂地の起伏を楽しみに、浅瀬の海水に足をひたしたりしているうちに、一緒に来た両親や弟たちを見失うこともあった。
 浅瀬の干潟にもデルタから河口につうじる舟路のようなところがあって、やがて満潮になるとくぼみに残された海水とつながって、あたりの区分がかわってゆく、それは私たちが潮干狩りから引きあげる時間でもあった。
 あげ潮ひき潮は当然の周期と知っていても一つの不思議さが心の底に沈んでゆく。干潟の満潮は、ゆるやかさとすばやさがその矛盾の感覚を含んだまま砂地と海面の地形を変えてしまう。

 ヴェネツィアでとびとびになった用件を済ませるため滞在が1ヶ月ほど続いた或る日、ヴェネツィア島周辺の海洋地図を探したいと思い、3軒ほど書店をたずねてみた。「そういう地図はない」と言って観光地図を見せようとする店もあったが、ようやく3軒目の店でラグーナ・ヴェネツィアという地図を手に入れることが出来た。
 この地図は下部1/3ぐらいがアドリア海の一部であり、左右は50キロメートルほどのところを縮小してある。中間の1/3に浅瀬のラグーナが外海の青色とは別にうすい色に記され、残りの約1/3陸地としてクリーム系に色わけされていた。中央部にヴェネツィア本島が小さくのっている。
 水面下の浅瀬は、その日の時刻によって干潟になるところもあり、全体をラグーナといっている。その一部に海上都市がつくられているのだが、地図をよくみるとラグーナの中に川が葉脈の縦横にくねって流れている。この川とラグーナの縁に小さな黒丸が点々と目につく。これは交通手段が船であるため、なくてはならない記号で、実際の海面にも丸太の杭が差し立ててあり見ることが出来る。かつてのヴェネツィアは外からの侵入者と海戦になるとき、これらの杭をすべて抜いてしまったとう。寄せ手の外敵船団は浅瀬にのりあげて苦戦と敗北をしいられた。今日のゴンドラの起源になる平底船の威力が創造される。ヴェネツィア人の祖先が陸からの侵略を逃れラグーナの広がるところに人工の定住地を築いて行ったことは、その後の歴史を決定的なものにしてしまった。
 この地に住む友人に誘われて彼のモターボートで、ラグーナのある海や外洋に同船することになっていた。そのため外洋地図を入手し、あらかじめ海の地形などを知っておきたいと思ったのである。潮の流れをとらえながら魚つりや貝ひろいをするもくろみもあったが、それ以上に海上都市国家の原形に興味をもっていた。水鳥の群れが翼を休めている姿をみたり、葦の繁みに近づいて干潟と潮の中に、あの堅固な要塞都市への変遷を想い浮かべてみた。ボートの友人は建築家で、泥濘層の地質と歴史の重層に関心をもっていた。ゆっくり時間をさかのぼるようにボートの回遊が繰り返されることになった。
 時の流れは地理的条件の上に地政的なものを加えてくる。ヴェネツィアは古代ローマと結ばれその一部でもあった。陸地に居たその文明人が苦しみに耐え人工的な努力を積み重ねてゆかねばならなくなった。泥濘の上に小鳥が巣をつくるような絶望に近い住まい方をはじめたのは、フン族、ゴート族の凶暴をさけて生きるための究極の手段で、非常な決意と能力が要求されたであろう。

 ボートに乗った私たちは初めヴェネチア島から東へ8キロメートルほどゆき、トルチエッロ島付近から回遊した。陸地から流れ込んだ川の水が沈滞しやすい地形があり、淡水は土砂や沈殿物とともに腐りやすい。海水のまわり込みが悪いとラグーナが生かされない。ボートで沼地帯をたどることで歴史の経過もみえてくるようだ。初期の繁栄地トルチエッロの廃墟や聖堂は魅力をもっているが、どこか妖気がただよっている。疫病と島の衰退は関係があるようだ。そうした時代を経てその後の水の行政官役は人工と自然の均衡をどうとらえるか、その重要さを増してゆく。今の私たちにも何かを語りかけているように思えた。自然は規則的に又、不規則的にも動いている。洪水と満潮が同時にくることがある、こうして滞積物変化は複雑になる。海の底のカラント層という粘土と砂からなるものが不定な厚みになっていることを友人の建築家は説明してくれた。地盤づくりもここの住民には死活問題だった。経済の興隆期も海の都は人工と自然の調整に気づかうことが多くなっている。能力者に笑顔をみせる海。恩恵は勇気と探求者に応えてくれるという風土になったのだろう。

 ヴェネツィアはサラセンとの戦いと交易によってライバルのジェノバを制し地中海の覇者となったが、宿敵トルコとの戦い、十字軍基地などを経て次第に晩鐘の歴史をたどり、今では私たちをさまざまな姿でむかえてくれる。島めぐりをした日の帰り、ボートから海水に手を入れてみて、生きているラグーナを感じてみた。潮の香りとあいまって歴史はまだ浅い眠りを続けているように思えてならなかった。
 リド島はちょうど城塞のように外洋とラグーナの海を遮断し,横に長く内側を封鎖した形をして、ラグーナの中の大きな川の入り口だけが外洋にむかってあいている。ヴェネツィア本島の対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ島の高い塔へ登ってみたが、リドの内も外も同じような海にみえた。ラグーナで有利な戦いをしたあと約千年の間、外国軍船を内側に入れなかったが、やがてナポレオンに屈服する時代がやって来た。ヴェネツィア島の東南のはずれの方が砲撃で一部くずされた。現在はこのあたりに国際ビエンナーレ展の会場がある。
 この国際展示の時期をはずして散策すると緑が多く、人かげも少なく静かなところで、道が海岸沿いにあり、右手前方海上にリド島を望むようになる。この海に大小の船が行き交っている。船の形が少し違うだけでこのあたりの情景はしばらく前の時代とあまり変わらないのではないかと思う。展示場への途中,岸辺から高低の差がある四角形の白い石柱が何本も組寄せられ海の中に据えられている。それは上面に青銅の人体彫刻が横たわっている台座であった。海上からはよく見えない。海を背面にすることで鮮明さが伝わってくるものだ。第二次大戦のときイタリア、パルチザン兵がナチス軍に殺され海に投げ捨てられ、それがこの海辺に打ちあげられた状態を現している。彫刻は等身大でデフォルメされているが両手を綱で結ばれ顔の表情ははっきりしていない。その感じがかえって無惨でリアリティを持っている。石柱代に着いている海藻をよくみるとわかるが,あげ潮のときはこの人体像は海面すれすれに沈み,引き潮になると石柱の上部とともに青銅の姿をすっかりあらわす。奇妙に物質化と生々しさが混じりあったようにみえる。すぐ傍らまで近づくことが出来るが,横たわるブロンズ像へ海に漂っていたゴミ屑や空きカンなどがまつわり残されて,かえって痛ましい。  潮の干満をとり入れたこのモニュメントの演出に強い印象を受けた。時間のイメージがよく浸透し据えられていた。しばらくの間この彫刻に引きよせられて息をのんでいたが、思いなおしたように海を眺めてみた。近くを華やいだ感じの観光船が通って行くのがうつろに見えた。船の波動で白柱に付着している海藻がゆらゆら上下する。海面に散乱した光に囲まれた一角の空間に時代の深層が見え隠れするように感じられた。潮が流れるように感覚も少しづつ動いてゆく。事物と心には境界線がなくどちらへも溢れてゆく。
 頬に潮風を受けて立っていた。弓なりのこの海岸線を眼でたどってゆくと遥かサンマルコの塔のあたりがよく見えた。色調は柔らかいが数々の建物の結晶が海との遭遇者の展開を手に触れるようにつたえてくる。